2017年6月21日 (水)

日系アメリカ人、日系カナダ人

 テロ等準備罪が6月15日早朝、参議院本会議において強行採決によって可決された。これによって組織的犯罪を企むグループを特定して犯罪を予防する目的で逮捕をする権限を警察機関に与える事になった。具体的には警察は犯罪行為が実行される前に容疑者を常時監視しながら犯罪の予備的行動を察知して逮捕、取り調べを行う事が可能になる。例外なく我が国民全員が法令の適応対象になる。
 1942年2月、前年12月の日本軍による奇襲真珠湾攻撃をうけて、時の米大統領ルーズベルトは12万人の日系アメリカ人を西海岸の10カ所の強制収容所に送る大統領令にサインした。一方カナダでもブリティッシュコロンビア在住の二万二千人の日系カナダ人は男女、大人子供の区別無くバンクーバー市内のへースティング・パークに集められた。その時点ですべての日系人の財産はカストディアン(財産管財人)に没収された。市民権も剥奪されて、カナダ生まれの漁民の漁業権も剥奪された。不思議なことにアメリカでもカナダでもすでに戦闘状態にあったドイツ系とイタリア系の住民には日系人に下された「予防拘禁」(あらかじめ犯罪予防的措置として容疑者を拘束すること)は行われ無かった。
 一方アメリカではアメリカ自由人権協会のアーネスト・ビーシングが強制収容所への入所を拒否して逮捕された日系2世のフレッド・コレマツを弁護して1942年6月、日系アメリカ人の強制収容を人種による人権侵害でありアメリカの憲法に抵触すると提訴した。フレッド・コレマツのケースは最高裁まで争われて結局6対3でコレマツ側が敗訴した。アメリカ政府による人権侵害を提訴したコレマツは皮肉なことに強制収容所で同胞の賛同を得ること無かった。彼はトラブルメーカーとして日系社会では孤立した存在になっていった。収容所の若者たちはコレマツとは正反対に米当局の求めに応じてむしろ積極的に愛国者として戦争に身を投じて行った。昨年NHKで放映された収容所から従軍した日系人の若者達が歩んだ軌跡をたどったレポートは衝撃だった。日系アメリカ人で組織された陸軍第422歩兵連隊はその勇猛果敢ぶりで戦史に名を残した。彼等の士気は極めて高く、結果として日系人兵士の死傷率はアメリカ兵の3倍と突出している。第422部隊は1943年イタリアから進軍しドイツ軍を破りながフランスまで達した。中でも孤立した米兵270名を救出するために戦った第422歩兵連隊の凄惨な戦闘は生き残った日系兵士にとっても悪夢となった。米兵270名が全員無事に救出される中、
800名を超える日系兵が死傷した。日系人の米社会におけるアイデンティティー獲得はこのように命をかけた国家への献身とし行われた。太平洋戦争末期に日本の多くの若者が神風と言われる絶望的な作戦に駆り立てられて行ったのと相似している。
 一方コレマツは終戦40年を経て法学者ピーター・アイアンズと系3世の弁護団の支援を受けて再び米政府を提訴した。1983年11月、北カリフォルニア連邦地方裁判所はコレマツの有罪を取り消してようやく米政府による日系人強制収容の違法性が認められた。この裁判の過程で日米開戦時に行われた政府による日系人に関する内部調査では当時の日系アメリカ人が米国に対して潜在的脅威にはならないと報告されていた事実も明らかになった。1988年ロナルド・レーガン米大統領は大戦における日系人強制収容政策の誤りを公式に認めて日系社会に謝罪した。
 この事件は権力の側の憶測によって一般人の人権が容易く侵害される典型的な事例ではないだろうか?
 実はこの記事は衆議院で共謀罪が可決したころに書きかけていた。あまり多数決が圧倒的でこれほど何でも通ってしまう現実に多少嫌気がさして書きかけで放り出していたのだ。でもその後政権の支持率が下がったり、文科省がちくちくと反撃しているので少しだけ溜飲をさげてアップすることにした。
 私達が監視されるのではなくてたえず政府を監視していることが何より大切だと考えている。

 
 
 

 
 
 
 

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2017年4月12日 (水)

神託(しんたく)と忖度(そんたく)

 月刊文藝春秋3月号に石井妙子さんというノンフィクション作家が「安倍昭恵(家庭内野党)の真実」と言う記事を書いています。月刊文春は芥川賞の受賞作を読もうと買ってきました。ちょうど森友問題が騒がれ始めた2月初旬でした。ページも開かないでそのままおいて居たら、ある日かみさんが昭恵さんのインタビューがのっているこの記事を見つけました。それで今回の森友事件のある意味中心的存在である安倍昭恵さん像を石井さんの視点から探索してみると・・・。
 首相公邸応接室に通された石井さんの夫人へのインタビューが始まります。部屋の隅では女性秘書が会話をメモしています。国会でもその後論争になった昭恵さんが公人か私人かについて筆者はすでに記事の最初の方で公費で秘書5人のサポートを受けている彼女を「夫人といえども、公人なのだと改めて思う。」と書いています。夫人は森永製菓の創業者である森永氏と松永氏両家の孫同士の結婚によって1962年昭恵さんは誕生しました。
幼稚園から私立の聖心女子学院に進み同級生の多くが4年制の聖心女子大学に進む中あえて2年制の聖心女子専門学校に進学しました。勉強が嫌いだったと述懐しています。卒業すると大手広告会社電通に入社します。その後上司の紹介で当時、父晋太郎の秘書をしていた安倍晋三と出会います。24才で8才年上の晋三と結婚します。当時の昭恵さんを自身は「女の子はおしとやかに育ち結婚するのが当たり前で幸せなんだという価値観の中で育った。だいたい私の周りに社会にでて働く女性のモデルは無かった。母も叔母も専業主婦、祖母など家の外にも出ないような人でした。」と語っています。一族の豊かな経済基盤を感じさせます。
 結婚した当時は夫晋三は父晋太郎の秘書でした。でも晋太郎の逝去の後、父の地盤を次いで1993年初当選を果たします。そして2006年ついに総理大臣に・・・。昭恵さんは若干44才にしてファーストレディーとなって「アッキー」は表舞台に登場します。前任の小泉首相は独身だったため首相夫人のポジションは5年間空席でした。当然昭恵さんには目安になるお手本が見当たらなくて歴代総理大臣の奥さん達を訪ねて教えを仰いだそうです。その延長でSNSを検索するうちにある気づきに至ったようです。それは人はそれぞれに役割があり自分と正反対の意見には、私とは違う役割を果たしていると考える事にしようと・・。対立している考えの人々の中にむしろ、すすんで飛び込んで行こうとする彼女特有の発想が有るようです。ご主人の晋三氏から見ても彼女の一見リベラルな行動が選挙応援などで幅広く集票できるアドバンテージとして役立っていた側面も有ったように思います。
 しかし第一次安倍政権は短命に終わり、政権の後半からその後の首相の突然の辞任の後しばらくの期間を昭恵さんは自身は外出も出来ずどん底の時代だったと述懐しています。
 その後安倍晋三氏は奇跡的に首相に返り咲いて昭恵さんも5人の官僚のサポートを得て活動の範囲を広げていきます。そして彼女の発言の「日本と取り戻す」とか「人と人をつなぐのが私の天命」には家庭内野党どころか
強い復古的歴史観が反映しているように感じるのです。やはりご主人である安倍晋三氏の影響が色濃く有るのではないでしょうか?       園児による教育勅語の素読に感銘して、森友学園の問題の発端になる新設の小学校の名誉校長への就任など今回の政治的混乱の背景にはやはり昭恵さんの無邪気すぎる行動と安倍首相や官邸の権力の私物化が有ると思います。
 昭恵さんが公人で有るか私人で有るかの論争の答えは明快です。
公費で賄われている秘書を帯同している昭恵さんのすべての活動は公人としてのもので有るはずです。私的な案件の場合は旅費等は昭恵夫人が私費でカバーしていたとされる件でもそれを示す具体的な帳簿など示す義務もあります。一説には官房機密費から出費されていたとの見解もあります。夫人付きの官僚が籠池さんからの問い合わせにファックスで回答している件も夫人付きと書いて、結果を夫人に報告しているので有れば夫人の関与を無かったと強弁するのも見苦しい態度だと思います。何時の頃から昭恵さんが天命を聞きそれを伝える預言者になったのかは分かりませんが、それを承った官僚があれこれ忖度せねばならなかったのも事実でしょう。でもこのように一方の責任だけが問われてもう一方の当事者や手続きに関わった面々がすべての公文書をさっさと廃棄してしまったなんて嘘を堂々と国会で発言しているは間違っています。昭恵さんが公の場で真実を語り、無くなった公文書が公表されるまで森友事件が無かった事には成らないと私は考えています。

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2017年1月 6日 (金)

新年から大当たり

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我がチットラでは年も改まった1月5日に通行車両によって看板が破損しました。お店が道路端に有るので、このての車両の衝突はこれで6、7回目になります。この看板については確か2度目の受難だと思います。
 いずれにしてもこの程度の損害で済んだので不幸中の幸いでした。
お店は支障なく営業しますのでご安心下さい。

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2017年1月 1日 (日)

新年に臨んで

Yjimagekxzf0w7j新年明けましておめどとうございます。
 大晦日にはお店の買い物のついでにゲオに寄って3作借りてきました。
結局、昨年は映画館には一度も行けなくて、私達の精神的飢餓感は多くの場合
ゲオとツタヤに満たして貰っています。その中でこれは素晴らしいと思ったのはアンドレイ・タルコフスキーの「アンドレイ・ルブリョフ」でした。タルコフスキーは「僕の村は戦場だった」が有名ですが、「アンドレイ・ルブリョフ」は壮大なテーマを描いた彼の力量を示すもので時折ついて行けなくて迷子になりながら見終わった時には感心しました。それとグザビェ・ドランの「マミー」と彼が主演した「エレファントソング」はとても創造的な作品でした。それで今回はタルコフスキーの遺作「サクリファイス」を借りて来ました。
 今年は他県にいる母に会いに行くのが当座の予定です。千葉で印度料理店「サールナート」をやっている小松崎君の年賀状に「みんなどんどん病人になってます。」とありました。誰にでも体の健康と心の健康、やはりその両方が必要ですよね。毎日の暮らしのなかで自分にとって楽しくて、ついでにさほど不健康では無い物を確保するつもりです。
 本年もどうぞよろしくお願いします。

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2016年12月31日 (土)

ピエール・バルー

 昨日の新聞の片隅にデビー・レイノルズの死亡記事と並んでピエール・バルーの訃報があるのが目に止りました。不思議なことに彼が心臓発作で亡くなった28日にもこの、ぢみ~なフランスのミュージシャンのアルバムをお店でかけていました。お店で流したのは火曜日あたりからで開店以来初めてだったんですよ。
 今週初め、数少ない音源にすっかり飽きてしまって、レコードプレーヤーを引っ張りだしてきました。手持ちの古いレコードの中から4枚ピックアップしてUSBに録音して仕込みなどしながら聴いていました。。ピエール・バルーのアルバム「サ ヴァ サ ヴィアン」を聴いていたのは20代の時以来何十年ぶりになるんでしょうか?ピエール・バルーは彼を有名にしたフランス映画「男と女」でアヌーク・エーメの事故死した夫の役で出てました。その後この二人本当に結婚したんですね。とつとつと歌う声が癒やし系でぼんやりと聴いていると味わい深い。(^_^)
 ご冥福をお祈りします。

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2016年11月 9日 (水)

アメリカンドリームは悪夢になって叶った。

 昨夜ふと私の頭をよぎったのは今度の米大統領選が、今年の6月イギリスでのEU離脱をめぐる国民投票みたいに成ったらどうするべといった懸念でした。あのイギリス国民の下した離脱の判断を、私たちの住むこの世界はすでに(何でもあり)の時代に変遷しているのだと納得するしかなくて、さらにもう一つ、世の中を動かしていく大きなエネルギーはしばしばマイナスのパワーを発揮する時より強大な力を示すという事実を私たちは目撃することになりました。
 床屋さんで話されるくらいの政治談義で二人の大統領候補のどっちが勝ったなんて言えるわけないですよ。何故、アメリカのメディアは彼をその気にさせてしまったのか?何故共和党はまともな人を候補者に選べなかったのか?何故選挙民は冷静な判断を投げ捨ててしまったのか?何故、両候補の政策に踏み込んだ論争が無いままテレビ討論会は終わってしまったのでしょう?なぜクリントンはオバマに敗れてからこの日を期していたのに不用意なメールの管理をしていたのでしょう?それさえ無ければ楽勝だったのにとヒラリー・クリントンに投票した有権者は口惜しく開票結果を見たことでしょう。私も大いに落胆しました。
 今朝の10時ぐらいに初めて開票の様子をみたらその時点ですでにトランプがいいスタートを切っていたので、思わず「これやばいよ!どうしよう。」と独り言を言ってしまいました。
 ドナルド・トランプ、安倍晋三、習近平、朴槿恵、金正恩、プーチン、ドゥテルテ、これだけ並べるとボクサーに例えればどなたもファイティングポーズで、やってやろうやないか感が横溢してますよ。これらのファイタータイプのボクサーがチキンレースみたいな事始めて、偶発的な衝突にならなければ良いのですが・・・。とても とても心配です。
 今回の大統領選挙の背後にある、民衆の不満の中に怨嗟や羨望がうずまいているようでそのマイナスのパワーがとても不安です。 美しい日本、偉大なアメリカ、栄光の大英帝国・・・一体全体どの時代にタイムスリップしようとしているのでしょうか?やはり不安です。
 
 
 
 

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2016年6月 5日 (日)

朴葉ずしを、ほおばれば・・。

Anotherdscn0115毎年この位の季節に私の田舎から朴の葉っぱでくるんだおすしがとどきます。今年もこれを心行くまでほおばって初夏の清涼感を味わっています。母が施設に入ってからは義姉がかわりに作って送ってくれるのでなお一層有難く、又母を思ったりします。朴の葉っぱの様子が南インド料里のお皿がわりのバナナの葉っぱみたいで良い感じですよね。この季節に公園を歩くとついつい朴の樹を探しています。

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2016年2月17日 (水)

レイコさんは働き者

冷蔵庫のレイコさんは我がチットラの二台目の冷蔵庫です。初代のレイラがわずか7年の寿命と短Epsn3490命だったのにその後を継いだレイコさんは23年の長きにわたって働き続けてくれました。その間お休みしたのは先の震災で電源が断たれた数日だけと云う精勤ぶりでした。昨年の猛暑をかろうじて耐え抜いてようやく2月を迎えた所でとうとう其の勤めを終えて去ることになりました。本当によく働いてくれたなあと改めてその奮闘をたたえたくなります。ドアを外されて搬出されるレイコさんの写真を記念にとっておきました。搬出の朝にかみさんがきれいに掃除をしていました。最後に私とかみさんとレイコさんの前で写真を撮ろうなんて言っていたのに業者さんがあっという間に搬送していきました。
 別れはかくもあっけなく切ないものです。(´・ω・`)ショボーン

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2016年1月 2日 (土)

賀正

O0507038012358268443 謹賀新年です。
 近年になくいっぱい食べました。これは贅沢なことですよ。
予定していたよりはるかに素早く時代が変化していくので、のんきなことばかりも言ってもいられない気分です。とりあえずは生存していくために必要な技術と知識や体力を補充すること。営業の中で出会う人達(お客様、業者等)以外の人と話をする機会が少しでもあれば良いなあ。
そんなところです。現実に即して考えて、自分の力で出来るところから変化してみたい。一歩でも二歩でも改善の方向に進ん行けたらラッキーです。

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2015年10月 6日 (火)

1985年10月6日  A Day In The Life

チットラを開店したのが1985年の今日でした。私の人生のある一日でした。テレビ朝日系列のニュースステーションはその翌日の10月7日に始まって2003年まで続きました。其の年の大きな出来事は日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故、そして女優の夏目雅子さんが若くして亡くなった事ぐらいしか思い出せません。当時はまだインド料理が仙台では珍しかっ たからか開店してしばらく忙しい日が続きました。真夜中に仕込みをしてお昼に営業すると寝不足で私もかみさんもくたくたになってしまいました。そんな日、まだ存命でその後に横浜の「ガネーシュ」のオーナーシェフになる石原さん電話してこれ以上働くと倒れそうですと弱音をはいたら、大丈夫すぐに暇になるからと言われて数日経つとその言葉どおりになったのを鮮明に憶えています。(「ガネーシュ」は石原さんの奥さんが能見台で今でも立派に営業されています。)そんなこんなで気がつくと30年が経っていました。思っていたより歳月は早く過ぎるので感慨にふける間もなく、ゲームの中で幾度となく振り出しに戻る感じにどれだけ慣れるかが持続のコツだったような気がします。もちろんここ迄やって来れたのはお客様が何度も足を運んで下さったからです。開店当初からのお客様が今でも来店して下さるのは本当に有難いことです。 
 お店は私とかみさんでやってきました。私がカレーを作ってかみさんがホールを担当するという典型的な街角のパパママショップです。どちらかが欠けてしまえばお店を維持することはとても困難です。今までやってこれたのは運にも恵まれていたのかも・・・。田舎にいる母にも物心両面で支援してもらいました。カレーなんて誰でも作れると云うのが私の持論なので(長くやっていれば誰でもカレーは作れます。問題は続けていけるかです。)結局私が未だにお店を続けていられるのはお客さまのごひいきとかみさんと母の忍耐力によるところが大であると言わざるを得ません。私の次のマイルストーン(一里塚)は半年先です。それからはその半年先です。もう5年先なんて大それたことは考えられません。来年の10月6日にまだお店が有ったら私は2つの一里塚を刻んだ事になるのです。それがかなうように努力します。どうぞチットラを今後ともよろしくお願い申し上げます。

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