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2009年6月29日 (月)

「カポーティー」を見る

 村上春樹氏の新作「1Q84」が爆発的に売れているそうですね。実のところ今まで彼の作品を読んだことがありません。もし読むんだったらもっと初期のものから読んみるつもりです。代わりというわけではなくて彼が翻訳した「ティファニーで朝食を」を読みました。その流れで、気になっていた「カポーティー」を借りてきました。
 以前「冷血」を読んで驚いて、ビデオの「冷血」を見ましたが、これもなかなか素晴らしいものでした。今回この「カポーティー」には「冷血」を書き上げるまでの彼の6年にわたる取材活動と同性愛者としての私生活や友人の女流作家「アラバマ物語」のハーパー・リーとの交友や勇名を馳せたニューヨークの社交界での様子などが描かれています。しかしあくまでもテーマは1959年にカンザス州ホルカムで起きた一家4人惨殺事件を取材するカポーティーの実像です。死刑囚との交流から彼の深層にある冷血が事件そのものの冷血と引き合って、やがてその深淵に引きずり込まれるように自身が壊れていく様子が描かれています。カポーティーは死刑囚ペリー・スミスとリチャード・ヒコックの延命願いつつ、もう一方では彼らの刑が執行されることによって作品の完結を願うというアンビヴァレンツに引き裂かれてゆきます。この映画のカポーティーは常にセレブである立場を最大限に利用して有利に取材を進めていきます。しかしその一方でいわゆる社会的成功はいったん獲得されれば、特権をもたらすと供に民衆の過度の期待値で成功者をじわじわと追い詰めていくのです。主人公を演じたフィリップ・シーモア・ホフマンはもちろんですが、死刑囚ペリー・スミスを演じたクリフトン・コリンズ・jrも好演です。重たいテーマなので見終えてちょっと辛くなったりしても、ついついまたこの手の映画見てしまいます。

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2009年6月22日 (月)

お掃除をしないと

 カレー屋はカレーを仕込んで販売するのが仕事です。又その他に、買い物や排水管の掃除、在庫管理等、結構やることがあるんです。今日は、私が最も苦手とする換気扇とレンジフードの掃除をしました。ついでにガスレンジのノズルの掃除もしました。これも定期的にやらないと火力が弱くなってしまうんですよ。都合で丸々5時間かかってしまいました。これはもうちょっとまめにやらないといけないなあ。たまにやるからこのような大ごとになってしまうんですねえ。一番好きな物を最初に食べる人が私です。苦手をついつい後回しにしてこんなことになってしまうんです。換気扇はどうしてあんなに徹底的に汚れるのでしょう?

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2009年6月15日 (月)

足利事件の菅谷さんの自白とは

足利事件で逮捕された菅谷さんが17年半ぶりに釈放されてテレビのニュースでその発言を聞いたとき、菅谷さんが何故当初やってもいない犯罪を犯したと自白してしまったのかと大概の人だったら疑問に思うのが当然かもしれません。事件当時テレビに流された菅谷さんの映像で、パーカーのフードをかぶって視線を落とした彼が間違いなく犯人だろうと思って何でこんないたいけな子供を殺してしまったんだろうと怒りを感じたのを覚えています。そうしていま冤罪を訴えてメディヤのインタビューを受ける彼を見ると今度は、この人はぜったに潔白だろうと感じてしまいます。私たちの映像から受け取る印象というものはこれほど不確かで、報道の仕方に大きく影響されてしまっているのでしょうか?
 私は一度だけ任意で警察の取り調べを受けたことがあります。1970年代の話です。当時私は世田谷区の経堂にある小さな本屋さんで本の配達をしていました。その日は近くの中学校に本を届けてから、宿直室立ち寄って用務員のGさんにも頼まれていた本を手渡しました。Gさんはあごひげを蓄えた、がっしりとした体格で、
若いころは日本共産党の非合法活動に加わって武装闘争をしていたという変わった経歴の持ち主でした。毎月たくさんの本を注文して頂くお得意様でした。彼の読書量は驚くほどで、学校の先生よりたくさん本を読んでいるのが彼の自慢の一つでした。それで私は、中学校にいくたびに宿直室に立ち寄って彼の若いころの武勇伝(?)なんか聞くのが楽しみで、その日がボーナスの支給日であることはそこでGさんから聞きました。翌日、本屋さんに世田谷署から電話がかかってきました。昨日支給されたGさんのボーナスが盗難にあったというのです。当日学校に立ち寄った業者からもすべて事情を聴取しているので手続き上のことだから任意で世田谷署に来てほしいとのことでした。書店のオーナーの許可を得て世田谷署に行くと、受付で私の名前を聞いたお巡りさんに案内されたのは、いわゆる取調室でした。よくドラマに出てくる小さな机が一つあって窓には格子がはめてあるあれです。すぐに刑事さんが入ってきました。40代前半ぐらいの男性でした。まあ掛けてくださいと言われて、窓際の席に座ると向かいに座った刑事さんから発せられた言葉は「やった事はわかってるからね。早く正直に話しなさい。これぐらいだったら微罪で済むから・・。でも嘘ついたら罪が重くなるからね。」私は怒るというより、あっけにとられてしばし言葉が出てきませんでした。すると彼は「あんた以前にも寸借詐欺やってるよね。調べさせてもらったから。」わたしは徐々に怒りがこみあげてきて、「私がGさんのお金を盗ったと疑われているんですか?」と尋ねると「やったでしょ。」「やってません。それに寸借詐欺ってなんですか。それも身に覚えがないですけど。」「早く本当のこと言えば、軽く済むからね。」「そもそも任意で事情をお話しすると聞いていたんですけど、これは取り調べですか?」「任意でしょう。あんたが自分で来たんだから。」やった、やらないの問答が20分ぐらい続いて私はとりあえず帰っていいということで、世田谷署を出てきました。帰り際に「もし本当に盗んだ犯人が見つかったら連絡してください。私が犯人ではないんですから。」と言いました。「いづれにしてもまた連絡しますから。」と含みを残した発言でした。数日後に中学校に行くとGさんがやってきて、「警察に呼び出されたんだって、悪いことしたね。この学校の生徒がやったって分かったんだ。」私は安堵して、改めてあの不愉快な取り調べ室でのやり取りを思い出しました。あの時私が自分の潔白を証明することができずに連日あのような言葉を浴びせられていたら私もおしまいにはやってもいないことを自白していたかもしれません。私のような市井の人間に自らの潔白を証明することはほぼ不可能です。ただ言えるのは私は自分が盗んでいないことを知っているし、本当に盗んだ少年も自分がやったことは知っているという事です。犯人と冤罪の容疑者は確実に分かっているということです。ちなみに世田谷署からその後何の連絡も報告も、むろん謝罪もありませんでした。

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2009年6月 8日 (月)

食べることを言い表す言葉

 私たちに日々の暮らしの中で、食べる事の楽しみは案外に大きな比重を占めているような気がします。それが食べることを言い表した言葉が日本語にも比較的多い理由なのでしょうか?「食らう」とか「むさぼる」とか「ぱくつく」とか「平らげる」なんて言葉も食欲のダイナミズムをイキイキと表していますね。
 日曜日の朝日新聞に池澤夏樹さんが南アメリカ南端のチリ領ナバリノ島に住むヤガン族最後の一人になったクリスティーナというおばあさんがヤガン語の最後の話し手になったために、とうとう幼少期に覚えたヤガン語をもう誰とも話すことができなくなってしまったこと、それで孫娘にその言葉を伝えようとしていることが書いてありました。池澤夏樹さんはそのおばあさんと話をしたそうです。その際に彼が現地で入手したヤガン語の英訳辞書には。やはり食べることを具体的に表わす単語が載っていました。例えば「ダガタマ」という動詞は「大きな肉の塊を両手で持って食べる」ということだそうです。「トー・アトゥ」というと「運びやすいように鳥を首と足で束ねて縛る」ことを意味しているそうです。池澤さんが言うには私たちが日常扱うものがより既製品になっていくにつれて、作り上げながら自然と対峙したり共生してきたわたしたちの祖先の獲得したものが言葉とともに失われていく様子を実感をともなって見ている気がするそうです。私は味噌汁は必ず鰹節でだしを取るようにしています。だしの素は使いません。化学調味料の食後に舌に残る後味が気になってしまいます。でも田舎に帰って母の料理を手伝ったときにだしの素を入れているので驚いたことがあります。母も食にはこだわる人なんですが、こだわるポイントが人によって違うのは確かです。いずれにしても、手間を省いては美味しいものには出会えないようです。食を表す言葉がすたれてしまわないように、私はその手間にはせめてこだわりたいのです。

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2009年6月 1日 (月)

脇道を行けば

このところちょっとした雑用で仙台新港の方面によく出かけることがあります。私の住んでいる泉区から行くのにはどういったルートで行けばベストなんだろうと古い道路地図をにらんで考えてみました。いくつかのルートが選択肢としてあって、実際にあさの通勤時間帯に走ってみるとルートによってかなり到着時間に差が出ることが判明しました。どうしたら信号通過の回数をへらして車が渋滞していないルートで走るかがカギのように思えます。ある日、これは空いているだろう思って通った脇道でやはり渋滞につかまって停車していると後ろの車が盛んに脇の農道に入っていくのです。その行く先を眼で追うと、あぜ道みたいなところを数台の車がすいすいと走っていきます。翌日はそのあぜ道をとおりました。2分くらい稼いだかなあ。そんなことがあってからふと信号で停車するたびに脇に延びている細道をみては、この道路がどこにつながっているかと好奇心がわいてきます。道路があれば必ずどこかにつながっているわけですから、私の知らない新ルートがあるのかもしれません。黒柳徹子さんが以前ラジオで、近道かと思って山道に迷い込んだとき、偶然に出会った車に、きっとこの車について行けば本線に戻れるとおもって必死について行くと更に更に山の奥に分け入って、とある農家に行きついてしまい、先導車の運転者に「あんたさっきからどうして私の家までついてくるのよ。」と怒られた話していました。おかしいですよねえ。

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